May Britt
本名のMaybritt Wilkens(May Britt Wilkens)からMay Brittという芸名をつけたスウェーデン出身の女優はマイ・ブリットと発音されますが昔はメイ・ブリットと表記されていました。(本人曰くマイと発音する) 真っ白に見える天然のプラチナ・ブロンドが美しくスタイルも抜群でソバカスがいっぱいの北欧出身の女優でしたが銀幕生活は10年もありませんでした。
☆ページトップの画像は私が50年以上も前にスクラップしておいた雑誌の切り抜きをスキャンしたものです。(画像拡大可) この写真のメイ・ブリットは60年代メイクを代表する不自然に濃いアイラインですが、青い手袋が綺麗だったので保存しておいたのです。 同じスウェーデン出身の女優でもグレタ・ガルボがハリウッドであれほどの人工美で磨かれたのにと思うとナチュラルなイングリッド・バーグマンやメイ・ブリットとの差は何であろうかという疑問が湧きます。
Ingrid Bergman(イングリッド・バーグマン)やGreta Garbo(グレタ・ガルボ)やAnita Ekberg(アニタ・エクバーグ)と同じくスウェーデンで生まれたメイ・ブリットはストックホルムで写真家の助手をしていたところ、1952年のアメリカ映画「Jolanda, the Daughter of the Black Corsair(黒海賊の娘ヨランダ)」に出演するヒロインのブロンド美人を探していた製作(プロデュース)のCarlo Ponti(カルロ・ポンティ)とWar and Peace(戦争と平和)も監督したMario Soldati(マリオ・ソルダーティ)に見出されたのでイタリアで主演デビュー後、1953年にAnthony Quinn(アンソニー・クイン)が出演したCavalleria rusticana(カヴァレリア・ルスティカーナ)や、イタリア女優のGina Lollobrigida(ジーナ・ロロブリジーダ)が出演したLe Infedeli (The Unfaithfuls VHSあり!)など何本かのイタリア映画に出演しました。 1956年にイタリアとアメリカの合作映画の「戦争と平和」に出演しました後、1950年代後期にハリウッドに渡りアメリカ映画に出演していたメイ・ブリットでしたが、「悪女役ばかりでは嫌。」とばかりに銀幕を去り、1960年にThe Rat Pack(シナトラ一家)のメンバーだった黒人エンターテイナーのSammy Davis Jr.(サミー・デイヴィス・ジュニア)と結婚してしまいました。 二人の間には娘が一人と養子の息子が二人あったそうですが結婚生活は長く続きませんでした。 咽喉癌を患ったサミーは1990年に64歳で亡くなりましたが1988年のテレビ出演以降完全に引退していたメイ・ブリットは未だ健在です。
※ちなみに17世紀ごろにアフリカ北岸に出没した私掠船コルセア(海賊)をテーマにした「黒海賊の娘ヨランダ」と、Leo Tolstoy(トルストイ)の1869年の原作”Krieg und Frieden(War and Peace)”を映画化した大河ドラマの「戦争と平和」とともに映画音楽はNino Rota(ニーノ・ロータ)でした。
メイ・ブリットが主演した「黒海賊の娘ヨランダ」の映画ポスターが見られるJolanda, la figlia del Corsaro Nero Poster – FILM.TV.IT
1957年8月にメイ・ブリットがカバーに載った雑誌ライフの表紙と1959年8月にメイ・ブリットがカバーに載った雑誌ライフの表紙が見られるMay Britt on AUGUST 17, 1959 LIFE -Coverbrowser.com(AUGUST 17, 1959下の方)
The Blue Angel (1959)
カナダ出身のEdward Dmytryk(エドワード・ドミトリク)が監督し、メイ・ブリットが無情で残酷、しかし率直で純粋な踊り子のLola-Lola(ローラ)を演じて代表作となった1959年の「嘆きの天使」は私がみたところは絶賛されていますが、賛否両論が起こったそうです。 どうしたらこの無粋な中年男を若い踊り子が愛するようになるのか。 教授が初めてローラとであった同じキャバレーのラストシーンでは、満員の顔見知りの酔客を前で笑い者にされる惨めなピエロ姿の教授に心が痛みます。
教授の品格はどこに? 人間の品位(尊厳)はどこに?
メイ・ブリットの「嘆きの天使」の写真が見られるL’angelo azzurro Photos – FILM.TV.IT(foto 画像拡大可)
「嘆きの天使」は「Der Zauberberg(魔の山)」で知られたThomas Mann(トーマス・マン)の兄であるドイツの作家のHeinrich Mann(ハインリヒ・マン)が1905年に書いた小説の「Professor Unrat(ウンラート教授)」の映画化ですがマレーネ・ディートリッヒが演じたオリジナル映画のリメイクになります。 ハインリヒ・マンの原作はキャバレーのショーガールと誇り高き教授のラヴストーリーというよりも、ドイツを第一次世界大戦に巻き込んだWilhelm II(ヴィルヘルム2世)下の19世紀後期のドイツ社会批判や心理的な考察を含んだ中年男の若い女への情欲や執念そして崩壊を描いているそうです。 原作の題名にあるウンラートですが、教授のむさ苦しい姿から採られた”ゴミとか廃棄物”という意味のあだ名だそうで、主人公の本名はただのRaat(ラート)です。 メイ・ブリットの「嘆きの天使」より先に映画化されたのはMorocco(モロッコ)と同じくJosef von Sternberg(ジョセフ・フォン・スタンバーグ)が監督してMarlene Dietrich(マレーネ・ディートリッヒ)がLola Lola(ローラ)を演じた1930年のドイツの白黒映画「Der Blaue Engel(嘆きの天使)」で、マレーネ・ディートリッヒに惚れこんだジョセフ・フォン・スタンバーグ監督が精一杯魅力を引き出しています。 一方、リメイクといえどもメイ・ブリットの「嘆きの天使」はローラがただの無情な女でもなく教授がただの笑いものとして描かれているでもない点で原作により近く、オリジナルよりも傑出している映画の一例ともいわれています。 アメリカのAmazon.comには”The Blue Angel Movie Photo 3-Page Print Ad”という映画宣伝用写真が販売されてはいますが、ビデオもDVDも販売されていません。(理由は不明、売れ筋商品でないから?) ※1961年のフランス映画でに「Lola(ローラ)」というタイトルでJacques Demy(ジャック・ドゥミ)が監督デビューし、踊り子のローラを「男と女」のAnouk Aimee(アヌーク・エーメ)が演じましたがリメイクではない、というか全く別のストーリーです。
The Blue Angel Synopsis
「嘆きの天使」のあらすじ
中年(初老)の教授が分不相応な若い異性に夢中になり破滅する映画としてはLolita(ロリータ)がありますが、「嘆きの天使」では赤線地帯の安キャバレーの踊り子の足に魅せられた脚フェチのProfessor Immanuel Rath(イマニュエル教授)の哀れな物語です。 いかがわしい界隈にあるキャバレーに出演している踊り子の脚に魅せられてから身を持ち崩していったイマニュエル教授はその地域では独裁的で厳しい授業をする圧制的な教師として知られており、学生たちに生物学の授業の一環として性教育を授けるものの自身は恋愛感情を体験したことがなかったほど性に関してお堅い考えを持っていたのです。 教え子からブルー・エンジェルというナイトクラブのことを聞き知った教授は、生徒たちの堕落を防ごうとしてと抗議しにクラブに出向いたところが、自分もそのクラブで酔客を相手に半裸も同然で歌い踊るローラの虜となってしまうのです。 汚れなきウブな中年男を魅了するのは海千山千のローラにとってはいとも容易いことでした。 セクシーなローラにぞっこんとなった教授は紳士然とローラに結婚を申し込んだのです。 笑い飛ばしたものの感激したローラは申し出を受けるのですが、これに驚愕した教授の友人たちや勤務する学校側は阻止しようと努めました。 しかしローラにのぼせ上った教授は学校の意向を無視し、その結果程なく解雇されてしまいます。 職を失って手持ちの金もすぐに使い果たした教授は貧困生活に甘んじなければならなくなったのです。 ローラはそんな教授を支えようとクラブに戻りますが、以前は教授として崇めたクラブの座長(手品師)は落ちぶれた教授にローラに付き纏わないように宣告し、その後はひどい仕打ちをするのです。 一家の稼ぎ手となったローラはクラブを転々とする一座の踊り子ですから、教職に就けるわけもなくローラの使用人のように成り下がった教授は次第にかっての威厳も失せていきます。 落ちるところまで落ちた。 ショーの一座のピエロが突然死んだので代わりに教授に演じるようにと座長が強要します。 教授をよく知る人々が詰め掛けたクラブで。
当時はまだ新人だった足自慢のMarlene Dietrich(マレーネ・ディートリッヒ)が演じた戦前のローラも野暮ったいといえ当時としてはセンセーショナルでしたが、ハリウッドでメイ・ブリットが演じた60年代のローラは食糧事情がよろしいこともあり大味とはいえその肢体の美しさは格別です。 長い長い足です。
Curd Jürgens
「嘆きの天使」では前例のないクールな悪女を演じたメイ・ブリットもさることながら、オリジナルではサイレント時代にドイツの文芸映画に数多く出演していた名優のEmil Jannings(エミール・ヤニングス)が真に迫って演じた狂気のイマニュエル教授を、同じくドイツ人俳優のクルト・ユルゲンスが上品にしかも老醜を上手く演じて素晴らしいのです。 中年になってから映画に出演するようになったクルト・ユルゲンスは41歳の時、1956年の「Et Dieu créa la femme(素直な悪女)」でBrigitte Bardot(ブリジット・バルドー)に振り回される大富豪、Pascale Audret(パスカル・オードレ)も出演した1957年の「Oeil Pour Oeil(眼には眼を)」ではアラブ人に復讐される医者、最も有名な1957年の「The Enemy Below(眼下の敵)」では米軍の駆逐艦との激戦を交えたドイツUボートの艦長、1962年の「Un Château En Suède(スエーデンの城)」では美貌の太陽はひとりぼっちのMonica Vitti(モニカ・ヴィッティ)に翻弄される老城主、1963年のDie Dreigroschenoper(Three Penny Opera/三文オペラ)では札付きの悪党といったように役柄は多岐に渡り、特に戦争映画でのドイツ軍人役では名を馳せました。 なので若いクルト・ユルゲンスは観たことがありません。
Falling in Love Again
「嘆きの天使」の映画音楽はFOXの後にWarner Bros.(ワーナー映画)で50本もの映画音楽を担当し、メイ・ブリットの出演映画では「若き獅子たち」も手掛けたドイツ系アメリカ人のHugo Friedhofer(ヒューゴ・フリードホーファー)ですが、メイ・ブリットが”Lola-Lola”とマレーネ・ディートリッヒの代表曲となった”Falling in Love Again”の2曲を歌っています。 ”Lola-Lola”を書いたのは作詞作曲家のコンビのJay Livingston (ジェイ・リヴィングストン)とRay Evans(レイ・エヴァンス)のコンビですが、二人が作った最も有名な曲にはDoris Day(ドリス・デイ)の代表曲となった”Que Sera Sera”や、”Mona Lisa”とか”Golden Earrings”などがあります。
1920年代から映画出演していたMarlene Dietrich(マレーネ・ディートリッヒ)がJosef von Sternberg(ジョゼフ・フォン・スタンバーグ)が監督した1930年の「Der Blaue Engel(嘆きの天使)」で5曲歌ったなかでは、有名な足を組んだポーズで最大のヒット曲となった”Ich bin von Kopf bis Fuß auf Liebe eingestellt(Falling in Love Again)”は晩年の1954年に「Sabrina(麗しのサブリナ)」や「We’re No Angels(俺たちは天使じゃない)」の音楽を担当したFriedrich Hollaender(フレデリック・ホランダー)が書いたそうです。 マレーネ・ディートリッヒは同年Gary Cooper(ゲイリー・クーパー)と共演した1930年の「モロッコ」で男装の麗人を舞台で演じて世界的に有名になりました。
※メイ・ブリットが主演した「嘆きの天使」のオリジナルであるマレーネ・ディートリッヒのDer Blaue Engel(嘆きの天使)は”Blue Angel”として現在もなおビデオが販売されています。
Edward Dmytryk
メイ・ブリットの「嘆きの天使」を監督したエドワード・ドミトリクは「Father Knows Best(パパは何でも知っている)」のRobert Young(ロバート・ヤング)や眠り眼のRobert Mitchum(ロバート・ミッチャム)が出演した1947年の「Crossfire(十字砲火)」や、Humphrey Bogart(ハンフリー・ボガート)が出演した1954年の「The Caine Mutiny(ケイン号の叛乱)」など一連の戦争映画を監督した後、1951年の「A Place In The Sun(陽のあたる場所)」で共演したElizabeth Taylor(エリザベス・テイラー)とMontgomery Clift(モンゴメリー・クリフト)が再び共演した1957年に「Raintree County(愛情の花咲く樹)」や1958年の「若き獅子たち」を監督しました。 メイ・ブリット主演の「嘆きの天使」の後は、Saul Bass(ソウル・バス)の黒猫のタイトルデザインがお洒落な1962年の「Walk on the Wild Side(荒野を歩け)」や、「The Subterraneans(地下街の住人)」のGeorge Peppard(ジョージ・ペパード)とCaroll Baker(キャロル・ベイカー)が出演した1964年の「The Carpetbaggers(大いなる野望)」、1864年の史実をもとにしてWilliam Holden(ウィリアム・ホールデン)とRichard Widmark(リチャード・ウィドマーク)が共演した1966年の「Alvarez Kelly(アルバレス・ケリー)」、Sean Connery(ショーン・コネリー)が主演した似非西部劇で1968年の「Shalako(シャラコ)」や、音楽がRichard Burton(リチャード・バートン)が主演し美女群が脱ぎまくる1972年の「Bluebeard(青ひげ)」などと1970年代まで活躍しました。
勝手にブルー考
映画のタイトルとなっているナイトクラブの”ブルー・エンジェル”は”嘆きの天使”と名訳されてまことに言いえて妙です。 映画ではキャバレーの名前もしくはショーの一座の名前ですが、堅苦しい教授のことを指しているようにも思えます。 エンジェルには音楽的なパトロンやビジネス的な投資家のエンジェルの他にも、美しい女性、善意に満ちた人、そして癒してくれる人といった意味もあるそうです。 ブルーには青い色の他にも憂鬱とか陰気、又は下品なという意味があるのでブルーフィルム(ポルノ)のブルーではないかと穿った見方をしてみました。 売春地帯はレッドゾーン(赤線)なのに猥褻映画はなぜブルーフィルムなのか。 それはその昔、合法な8ミリフィルムは青く着色(差別)されていたのだそうです。 その後は日本で劇場公開されているピンク映画とは別の無修正の非合法のポルノ映画をも指すそうですが、日本でブルーフィルムという言葉が知られるようになったのは多分に文学的な理由からです。 イギリスの作家のGraham Greene(グレアム・グリーン)が1954年に発表したTwenty‐one Stories(短篇)の中に旅行先(タイ)の裏町でポルノ映画を見た夫人が出演している男優が若かりし頃の自分の夫であることを知るという「The Blue Film(ブルーフィルム)」という一篇からだそうです。 蛇足ながら、1897年から1917年までジャズにゆかりのあるニューオリンズに存在した赤線地帯のStoryville(The District)について1895年から1915年に発布された規定書はBlue Books(ブルーブック)と呼ばれたそうです。
The Young Lions (1958)
メイ・ブリットの出演映画ではなんといっても上記の「嘆きの天使」が代表作といえますが、その前の1958年に「嘆きの天使」と同じエドワード・ドミトリクが監督した戦争映画の「若き獅子たち」では、A Streetcar Named Desire(欲望という名の電車)で人気が出たMarlon Brando(マーロン・ブランド)が演じるドイツ軍将校を誘惑する妖艶な大尉夫人のグレッチェンを演じて世の殿方を魅了しました。 マーロン・ブランドが演じる中尉がMaximilian Schell(マキシミリアン・シェル)が演じる大尉のお使いで奥さん(大尉夫人)を訪問したさいの戦時下の刹那的な情事なのでストーリーの中盤に2シーンの合計10分弱しかメイ・ブリットは登場しませんがインパクトがあります。 夫からの贈り物の黒レースのショールを纏ったメイ・ブリットは妖しいほどの美しさですからマーロン・ブランドでなくとも心を動かされるでしょう。 しかし中尉はこの2度目の訪問で反発しながらも慕っていた大尉の自害を知りながらも情欲に身を任せようした大尉夫人を手ひどく拒絶したのでした。 第二次世界大戦を舞台にドイツ側とアメリカ側を別々に展開していき衝撃のラストで両軍を合わせた「若き獅子たち」は豪華キャストです。 ユダヤ人を演じたA Place In The Sun(陽のあたる場所)のMontgomery Clift(モンゴメリー・クリフト)や徴兵を逃れようとした歌手のマイケルとして歌うDean Martin(ディーン・マーティン)が出演しています。
178cmほどの背丈のモンティがボクサーの経験がある183cmのディノと並ぶとかなり華奢に見えてしまいますが当時のモンティの諸事情を察すればこれでもかなり健闘しているようです。 50年代や60年代のアメリカ映画によく描かれているような差別はどこの世界にも存在しますが、アメリカ社会では黒人だけではなくユダヤ人も差別されていたことを学びました。 ユダヤ人を演じたモンティが盗まれたJames Joyce(ジェイムズ・ジョイス)のUlysses(ユリシーズ)と現金が戻った時にはホっとしました。 黒人は肌の色で判別できますが、ユダヤ人は異宗教というせいでしょうか。 後からやって来たイタリア人やポーランド人なども差別されたそうですが、昔からいたアメリカ・インディアンが差別されるなんて不思議な人間の社会です。(日本では北海道以北の先住民である蝦夷地のアイヌの例あり)
メイ・ブリットを抜きにしても見ごたえのある「若き獅子たち」のDVDは2005年発売になった日本語字幕版若き獅子たち [DVD](白黒映画)
May Britt and Marlon Brando in The Young Lions – YouTube
The Hunters (1958)
1958年の「追撃機」はDick Powell(ディック・パウエル又はディック・ポウエル)が監督した朝鮮戦争をテーマにした映画です。 ロバート・ミッチャムやNatalie Wood(ナタリー・ウッド)と結婚していたRobert Wagner(ロバート・ワグナー)が出演しています。 メイ・ブリットはロバート・ミッチャムが演じる少佐の軍隊仲間である中尉の妻でノルウェー出身のKristina ‘Kris’ Abbott(クリスティナ)を演じました。 「追撃機」ではロバート・ミッチャムはメイ・ブリットに誘惑されませんでした。
メイ・ブリットが出演した「追撃機」の映画ポスター及びスチール写真が見られるI cacciatori Photos and Posters – FILM.TV.IT
「追撃機」のDVDは2006年発売の日本語字幕版「追撃機」 [DVD](ASIN: B000H1RGQI)
Murder, Inc. (1960)
Stuart Rosenberg(スチュアート・ローゼンバーグ)が手掛けたがBurt Balabanに(バート・バラバン)監督が変更になった実話をもとにしたクライム・ムービーです。 「殺人会社」は戦争映画の出演が多いStuart Whitman(スチュアート・ホイットマン)があぶれたクラブ歌手のJoey Collins(ジョーイ)役で主演しました。 メイ・ブリットはダンサーをしているジョーイの妻のEadie Collins(イーディ)役ですが、Columbo(刑事コロンボ)で有名なPeter Falk(ピーター・フォーク)が映画デビューして演じた実在のギャングと言われる殺人会社のボス”エイブ・レルズ”(殺し屋)と夫のジョーイが関わったことから、イーディはエイブにレイプされるわ命を狙われるわと災難続きでタレ込んだエイブは部屋の窓から転落ししイーディは絞殺とそれぞれ非業の死を遂げます。 ジャズ歌手のSarah Vaughan(サラ・ヴォーン)がナイトクラブ歌手として映画初出演し”The Awakening”を歌っています。
アメリカのAmazon.comには”Murder, Inc.”として2006年にDVDが発売されていますが日本では見つかりません。
ショーガール姿のメイ・ブリットもちらりと見られる「殺人会社」の写真はMurder, Inc. – IMDb
May Britt and Sammy Davis, Jr.
サミー・デイヴィス・ジュニア夫人
メイ・ブリットはサミー・デイヴィス・ジュニアと1959年に知り合って1960年にユダヤ教に改宗してスピード結婚しました。 スウェーデン出身のユダヤ教の女優とユダヤ教の黒人の結婚は当時の人種差別の激しいアメリカ社会に於いてご法度だったので大変な騒動を引き起こしたそうです。 黒人と白人の結婚をテーマにした1967年の映画「Guess Who’s Coming to Dinner(招かれざる客)」でも描かれているように当時アメリカの南部では多くの州で白人と黒人の結婚はおろか同席さえも禁じていたのですが、1876年から1964年頃に布かれた奴隷制維持の”Jim Crow law(ジム・クロウ法)”が1967年に廃止になったものの、サミーの浮気(スター育成?)によりメイ・ブリットは翌年離婚してしまいます。 ちなみにサミーとメイとの娘トレイシーの他にサミー似(?)の男の子を二人養子にしています。
※白人と黒人の結婚での成功例には、黒人美人歌手のLena Horne(リナ・ホーン又はレナ・ホーン)とユダヤ系ではあります。MGMの音楽ディレクターとのLennie Hayton(レニー・ヘイトン)が生涯添い遂げた例が挙げられますが、当時はたとえ映画の登場人物でも、ウィリアム・ホールデンが主演した1956年のThe Proud and Profane(誇りと冒涜)のように白人と黒人の結婚は物議を呼んだのです。
May Britt and Sammy Davis, Jr. – wedding photo – IMDb.com